宇喜多秀家について
よく知恵袋とか見ていると宇喜多秀家という人物の名をよく見ます。前々から戦国時代後期の武将だとは知っていました。
ある日、信長の野望「天下創世」をやっていて宇喜多秀家の能力を見てみると政治50・統率61・知略36とひどい数値でした。コーエーさんも資料や伝承などを参考にして決めた数値と思うのでそんなもんかと思いました。
知識的に、領民に優しく温厚な人であるとは知っているのですが、他に功績とかありますか?知っている方教えてください。
功績は特にありません。
宇喜多直家の子として生まれ、豊臣秀吉の養子となり、五大老のひとりに数えられる。関ヶ原で奮闘し、敗れて八丈島にながされ長寿を保った。
こんなところでしょう。
政治手腕はコテンパンだと思います。幼くして秀吉の手元で育って坊ちゃん育ちです。領土の備前(いまの岡山県)は家老たちに任せきり。秀吉の死後、家老たちの内紛をおさめきれず、宇喜多の力を削りたいと目論んでいた徳川家康の介入を許して、何人かの有力家臣を去らせてしまいました。結果として関ヶ原での戦力はダウンしています。
それでも関ヶ原では、西軍について東軍を苦しめましたから、戦闘の指揮は、かれの能力の中ではずば抜けていた分野であったと思います。
最近、かなりファンがついてきているのは確かです。
遺された肖像画はかなりのイケメンですし、同じく秀吉の養子であった豪姫との美男美女カップルとして華もある。
西軍について敗れた悲劇の勇将、義理に準じた若き貴公子なんて見方もしやすい。
八丈島に流されて長寿をたもったのも、関ヶ原の合戦に敗北していながら、合戦に参加した人物のうち誰よりも長寿であった…なんてのも面白い。
要するに、日本人の好きな要素はかなり持っている人物です。
この人はなにぶんお坊ちゃま育ちなので政治手腕はまったく皆無です。ですからいつも政治手腕に特化した家臣に領国の政治を任せていました。ですからその家臣(名前は忘れましたが・・・。)が死ぬことで宇喜多騒動へと発展するのです。
ですがかなり優秀な家臣に恵まれています。
大友宗麟と同じタイプでしょうか?
例えば明石全登など、ですから当人はそれほど優秀な戦国武将であるとは思えません。
あと、唯一の長所は
潔く、優しいところです。
父の直家は大変な悪人で暗殺などが大好きでしたが、秀家は育ちがいいのか、誠実な人間です。
以上です
「領民に優しく」とは言いがたいでしょう。
所詮、秀吉の下でのお坊ちゃま育ちであり、政治下手、いやそれ以前に政治を知らなかったというべきでしょうか。
自らは上方で豪奢な暮らしに耽り、そのために税率を上げたり、鷹を300羽(秀家家臣、戸川秀安の記録による。但し、秀安は秀家の下を去った人物なので、誇張されている可能性は高いが、それでもかなり多くの鷹を飼っていたのは確かだろう)も飼い、そのエサのために領民に犬を捕まえて献上するように触れを出したり・・・と、政治家としては無茶苦茶です。暴君といっても過言ではありません。
但し、秀家は「領土を持つ大名」としては無茶苦茶ですが、「個人」としてはかなり「気品あふれるいい人」だったようです。
・関ヶ原敗走中に落ち武者狩りに遭遇したのに、その落ち武者狩りに助けられる
・家康に引き渡された時、秀家を匿ってくれた島津氏や前田利長が秀家の助命を懇願する
・八丈島に流された後のこと。島奉行に招かれた時、出された3つの握り飯を一つだけ食べ、あと二つは懐紙に包んで家の人のために持ち帰った
など、秀家の人柄を伝える逸話は多く残っています。
もし秀家が秀吉に甘やかされることなく育ったなら、民を慈しむ優秀な領主になっただろうと思わずにはいられません(超個人的かつ感情的な推測意見です)。
豪姫は前田利家とまつの娘ですが、秀吉の養女として育ち、そのまま秀家に嫁ぎました。
彼女の贅沢三昧に宇喜多家は窮々だったそうです。
備前岡山城主の宇喜多直家の嫡男で豊臣政権下の五大老の一人。幼名は八郎。大名家としての宇喜多氏最後の当主であり、備前岡山藩57万石余の大名。
毛利征伐のため中国遠征を進めていた羽柴秀吉による備中高松城攻めに協力した。このとき秀吉に気に入られ、養子扱いの厚遇を受ける。後に元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗った。秀吉の寵愛を受けて、秀吉の養女で前田利家の娘、豪姫を娶る。天正時代、四国攻めでは讃岐へ上陸し後に阿波戦線に加わった。九州の役、小田原の役にも日向戦線に参加して、秀吉の天下取りの戦いに積極的に参戦、数々の戦功を挙げ豊臣政権を支えた。
文禄の役には大将として出陣し、李氏朝鮮の漢城に入って京畿道の平定に当たる。李如松率いる明軍が迫ると、碧蹄館の戦いで小早川隆景らと共に打ち破り、晋州城攻略を果たすなどの武功を挙げた。これらの功により、参議から従三位中納言に昇叙した。
慶長の役では毛利秀元と共に渡海し、南原城攻略を果たし、さらに全羅道、忠清道を席捲する。日本に帰国し、秀吉から五大老の一人に任じられた。
また、自らの居城の築城に着手、商工業者を城下に集め、後の岡山発展の基礎を築いた。この城普請は、豊臣秀吉の大阪城、毛利輝元の広島城とともに大型近世城郭の先駆をなし、当時としては全国級の大型建造物となった。
関が原合戦では、西軍の副大将として西軍の主力となる。伏見城攻撃では、総大将として参加するなど西軍の主力となって奮戦するが、壊滅・敗走、薩摩の島津家へ逃れた。その後、死罪だけは逃れたが、流人として八丈島へ配流された。島で約50年を過ごした。なお、妻、豪姫の実家・前田家からは、明治に至るまで毎年白米金子など、多量の物資が八丈島の宇喜多家に届けられた。子孫は、明治3年、新政府の恩赦によって赦免され東京に入った。この後一族は、士族に加えられ明治天皇より板橋に宅地を賜る。
秀吉より貴公子として育てられたため、謀略家として良くも悪くも名が知れた父直家には足元にも及ばず、行政官としても宇喜田騒動の原因が彼の失政と人心掌握の失敗がありましたから、評価は芳しくありません。
ただ、軍略家、軍の総帥など武人としての評価は決して悪くはありません。
若年の頃は、重臣が専ら指揮していたようですが、長じるに従って自らが軍を率いています。
勿論、常勝不敗ではありませんでしたが、年齢と戦国後期という時代に比すれば戦歴は豊富であり、大過はなく、朝鮮や関が原の戦役などを通しての指揮ぶりについては、彼よりもずっと経験もある年長者の諸将からも評価は決して悪いものではありませんでした。
三成が嫌われすぎていた、というのもありますが、大谷吉継が忠告の際に上に立てろと言ったように、人望という点でも問題はなかったと言えます。敗戦後、島津家は追われている彼を何の特にもならないことを承知で三年も匿っていましたし。
関が原合戦の直前に島津とともに夜襲を主張、また東軍においても大垣城攻撃論に対して、家康は「宇喜田が主将となって諸将が率いる軍勢と戦っては苦戦する」と秀家の采配について認めている逸話もあります。
権力者の寵愛と庇護のもと、生き抜いてきた大名というイメージが拭えません。三村元親や浦上直景を討伐、追放し領土拡大を成し遂げた父・直家の功績が高く、どうしても比較が入りその数値が十分かなと思います。特に知略は主家を嵌めた謀略家・直家との比較がモロに出ていると思います。また、重臣同士の争いはよくある話ではありますが、その没落を止められなかった点は印象が悪いです。関ヶ原の戦いは生まれた年と父・直家が50代前半で亡くなってしまった点で仕方ない部分はあります。ただ、エピソードだけでは評価として足りません。
豊臣政権五大老の一人で、関ヶ原の戦いでは、西軍の副大将であった人です。目立った功績は特にないように思います。関ヶ原の戦いで敗れた後、八丈島に流されて、84歳で亡くなりました。また、前田家から、豪姫という奥さんをもらい、その人とは非常に仲がよかったそうです。